今年令和6年は観賢僧正の千百年御遠忌に当たります。
観賢僧正は、西暦850年頃、現在でいう香川県高松市の鶴尾地区に産まれました。真言宗の僧侶として仁和寺別当、東寺長者、金剛峯寺座主等を歴任しましたが、天皇に対する空海への諡号奏請と空海にその報告をした事で有名です。
御室派青年教師会員の皆様は釈迦に説法かもしれませんが、説明を加えると、観賢僧正は時の醍醐天皇に空海へ大師号を贈るよう奏請し、921年、空海が弘法大師の号を賜りました。これは空海を顕彰し、真言宗の教えを広めるのが目的だったと言われています。また、観賢僧正は高野山奥の院へ赴き、入定後86年目の空海に弘法大師号が下賜された事を報告し、髪と髭を剃り新しい衣を着せました。
この時に使われた剃刀を奉納した剃刀塚が高松市に残っています。
「大師は弘法に取られ、太閤は秀吉に取られ」の言葉が残っている通り、25人いる大師号を持つ高僧の中でも弘法大師は抜群の知名度を誇っています。しかしながら、その弘法大師という呼称の立役者にもかかわらず、観賢僧正の一般的な認知度は低いようです。
これは香川県においても例外ではありません。私は高松市で生まれ育ちましたが、学校での郷土の偉人に関する授業で空海や平賀源内には触れられても、観賢僧正については習いませんでした。
ただ、前述の通り、観賢僧正の没後1,100年を迎えた現在、香川県における状況が変わりつつあるようです。令和4年、観賢僧正誕生の地である鶴尾地区の小学校の校長先生が、市井の歴史研究家として観賢僧正についてまとめた冊子を発行しました。また、小学校における郷土教育の一環として、観賢僧正が取り扱われ始めました。それらの流れを受け、今年、香川県真言宗連盟主催の観賢僧正1,100年御遠忌や、御室派香川支所主催の先に述べた校長先生による講演会が企画されています。産業の分野における産学連携のように、宗学連携により、宗教と学問研究の相乗効果が見込めるかもしれません。
日本仏教は檀家制度に根差しており、土地の繋がりを無視しては成り立ちません。郷土の高僧について周知してゆく事は、在家の方々の土地への帰属意識や連帯感を高め、布教に繋がります。今回の観賢僧正の顕彰は、奇しくも、観賢僧正自身が開祖の顕彰を行ったのと相似形を成しており、時代を問わず有効な教化活動である事を指摘して、筆を擱かせていただきます。